TACHNOの読書ノート

苦悩や苦しみにどのような態度で臨むかのヒントを与えてくれる本を紹介するブログです。

2016年01月

英語では『The Will To Meaning』、「意味への意志」というタイトルで、原著は1969年出版です。これは私の生まれた年なのですが、フランクルを読んでいて思うのは、内容に古さを感じないことです。ホモパティエンス(苦悩する人間)の考え方が私は特に好きなのですが、苦悩することが人を自己超越させる契機となるとの考えは、近年売れているスタンフォード大学のケリー・マクゴニガルが『upside of stress』の中で多数の実験結果をもとに主張している考えと軌を一にすると言えるでしょう。

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ロゴセラピーの活用の一つに、「自己分離」というものがあります。有名な「逆説志向」とも関係するのですが、自分の持つ症状や、苦しみの原因に対する態度として、自分の姿を少し上の視点、鳥瞰的に距離を取ってみることです。そのために有効なのがユーモアであるとフランクルはいくつかの著作で述べています。本書にもその例が紹介されています。

人前だと胃がゴロゴロなってしまう学生がいました。胃が鳴らないようにしようと考えるほど、胃は鳴ってしまいます。彼はもうあきらめて、これはもう一生変わらないや、変な体質だよなあ、などと考え、友人と一緒に笑いのネタにしたようです。するとまもなく彼の胃はもうゴロゴロ鳴らなくなりました。

ユーモアによって、自分の置かれている状況や、そこで苦しんでいる自分を微笑ましく眺めることができれば、そこに向き合う新たな態度が自然と人に備わり、苦しかった状況がそれほどもなくなってきます。

「逆説志向はいつも可能な限りユーモアある方法で作られるべきなのです。ユーモアは人間に見通しを持たせ、自分と対峙するものとの距離をとらせます。同じように、ユーモアは自らを自分自身から引き離し、それによって自分を最大限制御できるようにするのです。自己分離という人間がもつこの能力を活用することは逆説志向が基本的に達成することなのです。」 p.167

つらい出来事があったとき、そこにいる自分をユーモアある視点で眺めてみると、感情的なわだかまり、怒り、恐怖が幾分克服されていることに気づきます。より想像力を働かせて自己自身に対峙するユーモアの能力を磨けば、苦しみの中から、わずかでも自己超越をする契機をつかめる気がします。完成度が高いコメディは、映画であれ、小説であれ、鑑賞後、元気が出たり、ふっきりれたようなさわやかな気分を与えてくれるものです。これも適切な「自己分離」感を与えてくれているからなのでしょうか。

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日本語訳では『スタンフォードのストレスを力に変える教科書』というタイトルになっています。


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彼女の前作『The Will Power Instinct』に続いてkindleで原著を読んでます。分かりやすい英語なので、さほどの英語力がなくてもスラスラ読めると思います。

いくつもの興味深い実験調査や社会活動の実例をあげ、
 ストレスや苦難、苦しみが人間を成長させてくれることを実証していきます。前半のマインドセットの効果も興味深いですが、苦難が人にいわゆるレジリエンスや思慮深さ、強さをもたらしてくれるとの議論に私は最も関心を持ちました。こうした議論はヴィクトール・フランクルが言うところの「ホモパティエンス」、つまり苦悩に際し、どのような態度をもってそれを受け入れるかによって、人間は大いに自分を超越させていくことができる、という議論と共通しています。

バッファロー大学の心理学者が2010年に行った調査では、病気、友人や愛する人の死、経済的困窮、離婚、家庭不和、隣人トラブル、性的なものを含む暴力の被害、家事や洪水などの災害のサバイバーなどのストレスフルな出来事を経験した人を4年間追跡調査し、その結果、何も経験しなかった人に比べて彼らはうつ病のリスクが低く、身体的にも健康で、人生にも満足している人が多かったという、予想とは逆の結果が報告されています。

決して不幸な出来事自体は歓迎するべきものではないですが、苦悩すること、衝撃的ともいえる悲しくつらい経験は、人にresilienceや成長をもたらす契機でもあるということです。どんな苦悩の中でも、そこで自分がどういう態度でその苦しみに臨むのか、その点についての自由は常に人間に実は残されていることが強調されています。この心理学者はこう述べています。

Given that it's happened, does it mean your life is ruined? People are not doomed to be damanged by adversity.

困難によって人間は必ずしも傷つくとはいえないのだ、と。

フランクルが強制収容所で経験したことには及ばないでしょうが、身近にも大変につらい思いをしたことがある人がいます。こうした人々は、確かに私の経験上、度量が広く小さなことにイライラせず寛容な人が多いように思います。苦しみは決して厭うべきものではなく、どういう態度でそれに臨むかのか、フランクルに沿って言えば、自分が人生から与えられた質問に答えを出す良い機会なのかもしれません。

しかしできればあのような苦しみは二度と味わいたくない、私はいつもつらかった時のことを思い出す度にこう思っているので、いつまでもたっても自分を超越することなど叶わない人生です。

 

結構高いお値段なので、出版されてから、いつも本屋で立ち読みしながら、お正月休みまで買うのを我慢していた本でした。

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私はこれまで仏教に関心があり、出家者の生き方について読書しており、修道士、特に清貧と言われるフランチェスコの生き方に興味を持っていました。確か中学生くらいの時に、映画『薔薇の名前』をレンタルビデオで見た時、二つ上の兄が、ショーン・コネリー演じる修道士を、「彼はフランシスコ会の修道士なんだよ」と言ったのをよく覚えています。だから何なの?と当時は思いましたが、何か特別な会派なんだな、くらいのことは思いました。

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修道士といえば、厳しい戒律に従って、つまり「規則」に従って生きていく人々を指しますが、「規則」とは別に「生」があり、この両者にある一定の区別がフランチェスコによって示されています。

フランチェスコは、「規則を規則と呼ぶだけでなく、生とも呼ぶことによって、規則の意味、すなわち、それが正しい掟にして生きることの形式であり、キリストの生へと導く生き生きとした規則であることを明確にしようとした」と。(中略)そのような規則は、書かれたテクストのうちには存在せず、「生の行為と所業のうちに存在する、」と。そしてそれは、「義務を負うことや誓願の宣立だけに」尽きるものではなく、むしろ「本質的には、ことばと生の所業ならびに徳を現実に行使することのうちに存する」と。p.143 

所業、つまり振る舞いでしょうか、そしてキリスト教的徳を現実社会で実践する生き方、それが規則であり、模範の提示によってしかその本質を人々に知らしめることはできないのです。マックス・ウエーバーが模範的預言(仏教)と使命的預言(キリスト教)の区別をしましたが、フランチェスコの思想では、模範的要素、すなわち救済に辿り着くための生活を身をもって示す実践が強調されているわけです。

自分自身は、読書や種々の経験を通じて感じている「こうあるべきだよな」というものを、どれだけ日常的に職場や家庭で出せているかといえば、大変心もとない状況です。

この本はきっとこれからも、自分の日常をrefrectする上での指針をいくつか与えてくれそうです。
 






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