TACHNOの読書ノート

苦悩や苦しみにどのような態度で臨むかのヒントを与えてくれる本を紹介するブログです。

カテゴリ: 人文書

 今回は、本書のもう一つのテーマであるマインドセットに関する部分について書きます。本書のIntroductionに、冒頭にふさわしい分かりやすい例が紹介されています。

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 スタンフォード大学で”どうやって主観的なマインドセットに変化を与えられるのか”を研究テーマにしているアリア・クラム准教授(assistant professor 写真の方)の研究です。

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ハウスキーパー(掃除夫)という仕事は、だいたい1時間に300キロカロリー、1時間に5キロ以上歩く時と同じカロリー量を消費する大変なお仕事です。しかしハウスキーパーたち自身は、自分たちが日々そのような運動をしているとは意識しておらず、体型も健康状態もさほど良好とはいえない状態だったようです。クラム先生は、彼らの日々の仕事は、実は大変に健康によい運動でもあること、専門家が要求する運動量を十二分に満たしていること、よって何らかの健康上の利点が必ず享受できるであろうことなどを、15分間のプレゼンテーションと、ポスターにより周知しました。

4週間後、ハウスキーパーたちは、体重と脂肪量の減少、血圧の低下、また仕事をより好きになっていました。主観的な認知内容は、出来事や物事に対する捉え方を変えるだけでなく、身体にも顕著に影響を与えるという点がこの研究のおもしろいところです。

The effect you expect is the effect you get. (期待する効果こそが、手に入れられる効果なのだ。)

NHKの番組「奇跡のレッスン 世界の最強コーチと子供たち」という番組で、元NBA選手のマグジー・ボーグス氏が、日本人の中学生にマインドセットが大事なんだ、と毎日繰り返し言い続けていました。失敗を恐れないこと、楽しんでやること、などのバスケットをするうえで大切なマインドセットが子供たちに浸透していくにしたがって、声が出て体も動くようになっていくのです。アメリカ文化では、すでにこのマインドセットという言葉が一般化し、その効果がある程度認知されているのかな、と思いました。

物事や出来事をどのように主観的に捉えるか、これは苦悩や悲しみに接する人にとっても大切なことだと思います。つきつめれば、死や老いというものに対してもどのようなマインドセットを持つかということが重要になってくるのではないでしょうか。

本書では、老いを、賢さ、経験の豊かさなど肯定的に捉えているグループと、悲観的に忌むべきものとしてとらえているグループの長期観察の事例が紹介されています。Baltimore Longitudinal Study of Aging 研究所は、18歳から49歳までの人を、38年間にわたって追跡調査をしたところ、肯定的グループは、寿命が8年、心筋梗塞の割合が80%低く、病気や事故からの回復が早かったとのことです。

何をどのように捉えるのか、宗教的な問いでもありますが、その人がもっている世界観、すなわち個々の出来事へのマインドセットの方向性を決める価値観のようなものは、日々意識してより良いものにしていく必要があるのかなと思います。


 

本書は1966年にダラスにある「南メソジスト大学パーキンス神学校」で行われた講義記録だそうです。聴衆がクリスチャンなので、本書の後半では、宗教や神をフランクルがどのような存在として捉えているかをうかがうことができます。

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フランクルにとっては、神の世界とは、現段階の人類の認知能力では、知ることができない存在次元です。ここで彼がいいたいことは、人間の無限ともいえる可能性と、人類が蓄積した認知能力はあくまでもテンポラリーなもので、今認知できないものを無意味なものであるとか、その存在を積極的に否定する必要はないということです。

彼の動物の例えはとても分かりやすいです。このアナロジーは時々フランクルの著作でみかけます。

「ポリオワクチンを開発するための実験用の猿、そのために何度も注射をされる猿は、その苦しみの意味を理解することはできません。猿の限定された知能では、その苦しみを理解することのできる唯一の世界である人間の世界に入ることは不可能です。」

同じように人間も、「人間の世界を超えた世界、人間の苦悩の究極的意味という問いが答えを見出す世界があるということは考えられないでしょうか」 p.221-222

人間がまだ十分に知ることができない、「超意味」は、「それを知的な基盤で把捉するのではなく、実存的な基盤で、私たちの全存在から、つまり信仰を通して把捉するのです」p.222

ここでいう信仰とは、神の存在を信じることではなく、人類がいまだ十分には知りえていない意味の存在を信じることでしょう。

また、フランクルは人生の行いを見つめる神の視点についても言及しています。人生という舞台で演じる役者は、その観客をまぶしいスポットライトで見ることができないといいます。役者が見ることができるのは、スポットライトの向こうに見える暗い闇の深淵です。つまり、彼は誰の目の前で演じているのかを知ることができないのです。

「彼は自分が見つめられていること、誰かが暗闇の中に隠れて、箱の中に座って彼を見つめていること(中略)を忘れるのです」 p.233

フランクルは、人間が常にその振る舞いを何かに見られているといいます。それは彼の良心の議論ともつながるでしょう。ちなみに、仏教でも同生同名といって、常に行いを梵天帝釈に報告する神が出てきます。人間は人が見ていなくても、何かが自分の行いを見ていて、それが何らかの形で実存に凝固していくというイメージが潜在的にあるのかもしれません。

フランクルは、北朝鮮の強制収容所で、被収容者たちがもし洗脳に屈しなければ、自分たちと自分たちの英雄的行為を誰しも知られずに死ぬことになるだろう、しかし、その英雄的行為は、人に見られているか否かにかかわらず意味があるといいます。それはフランクル自身が経験したことでしょうが、英雄的行為とは人に見せるための行為ではなく、自分の実存に刻まれていくものなのでしょう。他者が見ているかどうかは全く関係ないのです。




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